2018年8月~9月 振り返り

9月も終わり、もう2018年度の半分が終わったわけですね。

4月と5月はイレギュラーで2ヶ月分の振り返りをしたけど、このまま2ヶ月単位の振り返りで行こうか。 6月は割とのんびりしていたのに、そのツケが7月に回ったのかあんまり余裕がなくなった感じだった。6月は話題の映画もほとんどなかったか。 仕...

5月と同じような感じで9月も出張があり、その準備やら何やらで8月も結構時間を取られて、今年は夏休みがまともに取れなかった。
3月末の時点で「今年は3ヶ月ごとに振り返る」とか言ってたんだけど、4月、5月は色々と思うことが多過ぎて、早めに言語化しておきたくなった。なのでまだ2ヶ月しか経ってないけど振り返り。 仕事 4月からメインの業務がちょっと変わったり、並...

まとまった時間が取れないと趣味で何かすることもできなくてなかなか辛かった。(最近の模型記事は実作業とだいぶタイムラグがあるのです)
隙間時間や移動時間中にちょっと読書したぐらいで、ずっとモヤモヤしていた。出張のためにちょっと出費も増えてしまったし。

今回の振り返りは感じたことの記録が優先で、ちょっとまとまりが悪いです。なんとなく、記録しておかないと前へ進めない気がするから。

仕事で思うこと

このままずっとここにいて良いのか、1年ぐらい思い悩んでいる。
仕事で何となく感じている違和感やストレスの元が具体的に何なのか、それとどうやって付き合えばいいのか、対処方法を考えながら過ごしている。
嫌なことを「酒を飲んで忘れる」みたいなことができないというか、納得できないまま過ごすことがストレスになる人間なので、受け流すことができない。それで結局嫌なことにばかり考えてしまう。

仕事以外の時間も嫌いなことで頭がいっぱいになっているというのは不健全な気がする。


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会議

引き続き、上手く噛み合わない人達との会議ばかりの毎日だった。朝から晩まで丸1日会議をすることも多かった。
そもそも、準備時間を圧迫してまで会議時間を確保してしまうスケジューリングが自分達の首を絞めていた。不安だから集まる日程を先にどんどん押さえてしまうという悪循環。早めに時間を確保しておかないと他の予定が入ってしまうというのも分かるけど。

ただ、会議を通じて色々と感じることは多かった。

文脈を見失う

長時間会議をしていると、その会議中だけでも色々な意見が出て、参加者各々のズレがだんだんハッキリしてくる。
「ズレ」というのは、お互いが見ているものの違い、つまり話の文脈が共有できていないということ。このツイートの概念図が分かりやすい↓



会議の始まりからずっと同じ文脈で話をしているはずが、人によってはストーリーラインの前半、あるいは大部分がもう記憶から欠落してしまっているということが起こる。
長い期間や、丸1日のような長時間の会議というやり方を続けていると、参加者各々の記憶力の差が、認識している文脈の差という形で現れるのだ。
目の前に出された情報の断片に対して都度リアクション取っているだけの人が目立ち始める。

参加者が増えると、同じ概念を複数の例で説明する必要も出てくるが、複数の例を同じ文脈だと捉えられない人も出てきてしまう。話題が変わったと認識してしまうのだ。
この辺りは参加人数に比例してどんどん難しくなっていく。

以前、会議の終わりに「発散したな」と言われて違和感が残ったことがある。今思えば、それはストーリーラインを捉えるタイムスパンの個人差からくるズレだったのだろう。
こういう短期記憶のことをワーキングメモリーという呼び方もするけど、その容量の個人差にはちゃんと配慮しないといけない。記録する道具は沢山あるのだから。

理想的には、ある一定時間ごとにこれまでの議論を整理したサマリーを作成して、各々の認識を統一しながら進めるべきなのだが、連日丸1日会議なんてアホなスケジュールの立て方をしている時点で、そんな配慮まで頭が回るはずもなく。。。
使える時間を全て会話に投入するという。。。

とはいえ、文脈を見失うのがあまりにも早い人がいて、オイラの目には「シラフなのに酔っ払っている人」のように映った。数分前に話していたことを記憶していなかったり、自分で話していて何の話だったのかが分からなくなって怒り出すのはさすがにちょっと引く。

思考の持久力

文脈を見失うのと関連して、「思考の持久力」みたいなものの存在をなんとなく感じた。
これも長時間会議するのがそもそもの間違いではあるけど、「長時間考え続ける」という行為は、持久走と同じようにある程度訓練していないとできないのだ。

元来人間には「長く結論が出ない状態に耐えられない」という性質があるようで、思考の訓練を積んでいないと「もう疲れたから当てずっぽうで結論を決めてしまう」ということを平気でするようである。

オイラ的には「まだ考える余地はある」と思えることも「ダラダラ考えてないで結論を急ぎたい」と感じる人の方が多いようだ。まだ見ぬ遠くのゴールを信じるより、近場をゴールと見なして切り上げてしまう。
まあ、これはどちらが良い・悪いというより、状況に応じて調節すべきことだとは思う。オイラはその辺のバランスがちょっと偏っていて、考え続けて行動に移すのが遅くなりがち。

ただ、長く考える訓練を積んでいない人、つまり思考の持久力が乏しい人と長時間議論を共にしても、疲れて機嫌が悪くなるだけなので一緒に過ごすのが辛かった。
自分で考えることも、調べることも、人の話に耳を傾けることも放棄した人と対話しなければならない苦痛。ただ機嫌が悪いだけの人から自分はこんなにもダメージを受けるのか、と。
行動する段階になったら頼もしい存在なんだろうけど。

「とりあえず」とか「今は置いておく」とか、それを繰り返した先にあるのは、今と変わらない景色。

思考の連続性

他人が当てずっぽうで結論を導こうとしているのを眺めていて、「考える」という行為や「ひらめき」とは何なのか、色々と思いを巡らせた。

「当てずっぽう」の困るところは、それまでの思考・議論と連続性が無く、断絶している点だ。そこに何の文脈も無く、乱数のように発生した情報なので、背景・課題との整合性をまた検証し直さなければならない。
当てずっぽうで言いだして、その検証を他人に委ねようとする人が苦手。それでいて斬新な発想かというとそういうわけでもなく、サイコロを振るよりも質が悪い。当てずっぽうを沢山並べて働いた気になる人も結構いるけど。

もちろん、凝り固まった発想から抜け出すために強制的に別の情報をインプットするというやり方もあるが、それは考えるのを放棄するのとは違い、より遠くへ発想を広げるためのものだ。知識・思考の空間を広げることで、別の視点を得るきっかけを作るのだ。

知識を手繰り寄せ、連想を繰り返して遠くの結論へ辿り着く、というのは意外とスキルが要るのかもしれない。思考のスタート地点からゴール地点の距離が遠いほど、傍からは「ひらめき」に見えるのだろう。
だが、適切な結論には、思考のスタートからゴールまで連続した道筋が存在し、それは理屈で繋がっている。

これはワーキングメモリ―の話とも関連していて、連想を繰り返して遠くへ行っても、スタートからの道筋を覚えていないと戻って来れなくなるらしい。
辿ってきた道を言語化して記録するなどの工夫が必要だ。パンくずリストみたいなものか。

思考の途中経過、過程を表出・記録するという術を知らないと、長時間・長期間思考を継続するのは困難だ。「結論」という形でしかアウトプットできないでいると、どうしてもスタートからの道筋を見失ってしまう。
これは1人で考え続けるにしても、会議でお互いの思考過程を共有するという点においても。

言葉で表すスキル

オイラのいる職場ではエンジニア上がりの人間が多く集まるからなのか、あんまり言葉で表すのが上手くない人が多い。(オイラも含め)
実装担当だと、実装したものを使ってコミュニケーションが取れるということと、実装から離れた抽象度のボキャブラリーを必要としないというのもある。

問題は、実装する前に誰かと議論、あるいは誰かを説得するような場面。使う語彙が実装に近過ぎて、やたらと細かく具体的になってしまう。
議論に適切な抽象度を維持するボキャブラリーが不足していて、会議で使える表現力を持たない人が結構いる。
これはエンジニアのキャリアパスの問題もあるけど、エンジニアがある程度キャリアを積むと、実装から離れた仕事(マネジメントや企画など)に移行してしまうギャップがもたらす悲劇だ。

検索エンジン時代に適した思考方法

思考空間の中を移動するためには手繰り寄せられるだけの豊富な知識が必要だし、だからこそサーベイ・リファレンスを十二分に集めておかなくてはならない。インプットとアウトプットのバランスで言うと、インプットの方が圧倒的に量が必要となる。
検索エンジンはそういう「思考空間の歩き方」ととても親和性が高く、自身のボキャブラリーを使って新たな知識を手繰り寄せていく乗り物。

インターネットが普及した検索エンジン時代、「調べる」と「考える」が近しい作業になっていて、ボキャブラリーが思考の限界を規定してしまう。「情報を足で稼ぐ」というやり方がインターネットでは通用しない。
インターネット上の知識領域の散策には、やはり知識が必要となる。語彙の連想によって周辺の知識を補充・アクセスする地図を作っていく。疎なボキャブラリーの隙間を埋めて解像度を上げていくようなやり方が必要。

そういう時代に効果的な勉強方法を色々と模索して、辿り着いた方法がある。
オイラが新しい分野を学ぶ際、まず最初に意識するのは「ボキャブラリーの獲得」だ。まずは学会や展示会など、リアルな場でボキャブラリーを足で稼ぎ、その後インターネットで疎な知識の解像度を上げていく。

言葉で課題領域を照らし出す

似たような考え方を、新しい業務での課題抽出に使っていることに最近気づいた。
業務プロセスや業務知識は、人間が作り出した概念でしかないので物理的に目に見えるものではない。だから人づてで聞き出していかなければならないことが多く、適切なクエリを投げなければ情報が帰ってこない。エンジンの検索のように。

少しずつ業務を表す語彙を補充し、言葉の地図の解像度を上げていく。そうやって頭の中に作った概念の空間を眺め、それぞれの時系列や依存関係を紐解いていく。

そうやって見ていくと、語彙の粗密度の偏りが気になる箇所を見つけたりする。
実際に行っている物理的な手順に対して、妙に語彙の解像度が高かったり、逆にあまりにも語彙が粗い箇所が見つかる。今ならテクノロジーによって一瞬で済むはずのプロセスに、旧来からの概念だけが肥大化していることがあったり、実際にはもっと複雑になっているのに昔ながらの粗い語彙しか割り当てられてなかったり。

ボキャブラリーを補充していく過程でそういう違和感が浮き彫りになってくる。それがオイラなりのきっかけ、ヒントの掴み方。
そこからそれまで想定していなかった評価軸が見出せた時にはちょっとした快感を覚える。

穴埋め問題の弊害

一方、いわゆる「穴埋め問題」の形に落とし込んで結論を導く、というやり方を取る人が多いことを知った。代数的な発想とも言えるか?
その発想自体は方程式っぽくて悪くない気がするのだが、実際のやり方が残念だなぁ、と思う点も。

対象を問わず、情報をいきなり2次元マトリックス(要するにExcel)に並べてしまう。これはExcel文化が問題なのだろうか。ここで大事なのは情報をExcelのマス目にプロットする作業ではなく、まずは座標軸の取り方のはずだ。

2次元マトリックスに書き始めた時点で、暗黙のうちに誤った尺度に当てはめてしまっている。これではいくら手間をかけても良い結論にたどり着けそうにない。こんなやり方、いったいどこで覚えてくるのだろうか。

観察する・測り方を考える

長い会議を通じて、否応なしに他人の思考方法に触れることになって、他人と比べた自分のやり方について自覚できた面もある。

「思考法」というと、色々な方法論・フレームワークが存在するけど、それらは基本的に目的に合った「測り方」を提供して情報を整理してくれるもの。2次元マトリックスに当てはめるのだって1つの測り方ではある。

他人と比べたオイラのやり方の特長は、測り方を選べる、見出せるという点な気がする。
以前も書いたように、オイラは観察するのが好きなこともあり、対象の特徴を捉えたくなるし、適切な測り方を模索したくなる。
物事を杓子定規に扱うことに抵抗があるとも言える。それは物事だけでなく、人に対しても。全員同じ基準で横並びにするのはちょっと違うんじゃないか、とか。

フレームワークに則る以前に、まずは対象をよく観察してその構造を捉え、適切な測り方を選んで進めるのがオイラのやり方。
何か実装するにしても、観察範囲と実装範囲は分けて考えるし、機械側だけでなく、それを使う人間側も観察対象に含んだりする。
CGの研究だと、描画する画とそれを見る人間の目の性質の両方を考慮するから、当たり前のようにやっていたというのもある。

それは達成感か?疲労感か?解放感か?

昔から、集団で何かを作り上げるような時にずっと感じている違和感がある。それは学生時代の文化祭でも、会社員になってからのチーム開発でも、会議でも。

「達成感」というやつだ。オイラは「何を成し遂げたか」という尺度で考えてしまうのだが、周りの人達は「どう過ごしたか」という尺度で「達成感」を感じるようだ。オイラから見ると、それは「疲労感」や「解放感」といった類のものだと思うのだが。

これはアウトプットを「名詞で捉える」か「動詞で捉える」かの違いなのだろうか。
オイラは名詞で捉えていて、「何を作ったか」という点で達成度を図っているけど、動詞で捉えると「どんな行動をしたか」となり、アウトプットの質ではなく、かけた労力にフォーカスされる。
労力で測ろうとしてしまうのはなんともサラリーマン的というか、盲目的な働き方に感じる。
親睦を深めるためのレクリエーションとかならその尺度でも良いんだけど。

こういう尺度のズレからか、昔からチームで何かを作り上げるというのが苦手だった。というか、そういう機会がある度に結末はいつも決裂したような感じになるんだ。そう感じているのはオイラだけなんだろうけどね。

習慣が壊れてしまう

会議や出張の日程をどんどん詰め込まれて、今までせっかく習慣化していたことが壊れてしまった。
もともと体力が無いから週末はあんまり予定を入れないんだけど、予定が入っていないから出社を断る理由も無くて。月謝を払っているのに、スポーツジムも英会話も全然通えなくなってしまった。継続したいから習慣化していたのに。
自炊する元気も無くなってきて、冷蔵庫の中のものの賞味期限が切れて捨てるはめに。自炊って結構贅沢な行為なのかもしれない。

独学で何か勉強する余力も無くなってしまって、知識がどんどん遅れていく不安が増している。やり途中になっているMask R-CNNの勉強や、最近はVRやARについても勉強したい。

引越して1年

去年の8月に引っ越したので、ここで暮らし始めて1年経った。何となく、1年前に考えていたことを振り返って今と比較してしまう。

今月も振り返り。 先月も思ったが、時間感覚がちょっと不思議で、日々穏やかというか、ダラダラしている。ハンパに時間が余っているというか。 帰ってから何も作らないと微妙に時間が余ったような感覚になる。でも刻々と時間は過ぎていく。ここ数年は年...
気づくと今年も残り少ない。何か成し遂げたか? ここ数ヶ月と同じく、今月もなんだか長く感じた。その原因はおそらく、考える時間はあるのに、何か行動するほどの体力というか、余力が残らないこと。とても受け身な1ヶ月だった気がする。 仕事で思う...

1年前は趣味での創作活動でのアウトプットを増やしたいと思っていたのに、今は状況がもっと悪化している。もっとアウトプット実績が増えていることを期待していたのに。


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