2018年6月~7月 振り返り

4月と5月はイレギュラーで2ヶ月分の振り返りをしたけど、このまま2ヶ月単位の振り返りで行こうか。



6月は割とのんびりしていたのに、そのツケが7月に回ったのかあんまり余裕がなくなった感じだった。6月は話題の映画もほとんどなかったか。

仕事で思うこと

ここ最近、自分の職業は一体何なのか、ジャンル以前にそもそもこれは職と言えるのか、よく分からなくなってきた。
だんだん時間に追われていく感覚はあるけど、「何で忙しいの?」と考えてみると、業務の量が多いわけではない。プロセスの選び方の問題のような気もして、目隠しして走り回っているような自業自得感がある。世の「忙しい」って一体何なんだろう。

老害のメカニズム

「老害」と呼ぶのは言い過ぎかもしれないけど、年齢にかかわらず、部下あるいは後輩のパフォーマンスを潰してしまう振る舞いがあることを職場で実感した。

特定個人のパフォーマンスを最大化するために集団のリソースを食い潰してしまうやり方。これは視野の狭さからくるのかもしれない。その人個人の体感では自分のパフォーマンスが向上しているけど、集団として見ると著しくパフォーマンスが下がっている状態。それを無自覚にやってしまう。

この辺りは体育会系というか、部活動の習慣をそのまま仕事に持ち込んじゃう人が結構いるように思う。自分自身が快適に過ごすために部下・後輩のリソースを食い潰してしまう。
部下・後輩を自分の舎弟として使ってしまうのである。

ここで言うリソースというのは肉体的な労力だけでなく、頭を使った「知恵」も含む。このやり方で致命的なのは、成果の上限が1人の見識に規定されてしまい、多くの知恵を借りることができない点。

知的労働の時代にそぐわないというか、長年の滅私奉公の慣習が思考を放棄した手足係の層を厚く形成したのかと思うと嫌悪感がわく。
そういう点で言うと、オイラは昭和の職場・働き方しか知らないのかもしれない。


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裁量を奪われる

オイラの職場は裁量労働制で定時という縛りは無く、だから残業という概念も無い。
なんだけど、なぜだが最近出社時刻を(やたら早朝に)指定されることがあって、寝不足が自分にどんな影響を与えるか改めて体感した。年齢のせいもあり、寝不足の影響がかなりダイレクトに身体に現れるようだ。

寝不足になると「頭が働かない」という自覚は無くても、体感としてとても不機嫌になった。思考が自然と攻撃的になるのだ。
オイラの根はすごく不寛容な人間なのだと思う。こだわりというか、執着心が強いし。

自分なりのやり方でパフォーマンスを発揮できるのが裁量労働のメリットだと思っていたので、強制的にやり方を指定されたり、時間を使われるととても不機嫌になる。それが思考停止の結果だと特に。この辺りは老害のメカニズムにも通じる話。

裁量を奪われるのはストレングスファインダーの診断結果的に、オイラにとってストレスになる働き方っぽい。


https://r25.jp/article/566532821863810074

他人と思考プロセスを共有する

仕事の中で、集団の合議制で考えを進めて行くプロセスを取ることが増えた。
これがかなりしんどい。日本人は個人で考えるよりも集団で考える方が得意という話も聞くのだが、オイラは性に合わないようだ。

相手の言い分とその根幹にある認識を受け止めることと、逐次自分の考えを述べ、そして説得しながら進めなくてはならない。考えながら人を説得すると根拠に乏しくなりがちで、平行線のままお互いに疲れて諦めてしまう。

進捗の測り方の違い

もっと根本的なストレスとして、思考の習慣・進捗の測り方の違う者同士がプロセスを密に同期しようとしている点がある。

オイラは割と、課題設定から解決手段を探す・工夫するアプローチで考える方がやりやすいんだけど、課題設定に興味のない人も結構いる。というか、体感的には課題設定をスキップする人の方が大多数なんだけど。

そういう志向の違う者同士で会議をすると進捗の感覚のズレが大きな断絶となる。
オイラの感覚では、課題を浮き彫りにしていくプロセスも十分に「進んでいる」と感じるんだけど、課題設定に興味のない人は成果物の積み上がり方で「進んでいる」を測るらしい。
会議にかけた時間に対して、足し算でどんどん要素が積み上がっていかないと、「堂々巡り」と感じて話を止めてしまう。こちらとしては、洞察が浅いまま思考を打ち切られてしまう感覚でもどかしい。
向こうから見たら、話を堂々巡りさせて足を引っ張る人ってことなんだろうけど。

感覚の言語化が粗い

また、人の振り見て我が振り直せじゃないけど、個人的な不平不満・愚痴が主張の発端になっている人を見て色々と思うところがあった。
不満を抱くこと自体が悪いとは思わないが、問題は不満に対する解像度が低いことだ。洞察が浅いという言い方もできる。自身の感覚にちゃんと向き合っていない、雑な捉え方で結論を急ぐとろくな主張にならない。

一般的に、ネガティブな人が嫌われるというのはこういう部分なのかもしれない。きっかけがネガティブなものであれ、そこから洞察を得られれば解決のアイディアに繋がるんだけどな。


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よく見てよく狙え

以前から何となく思っていることだけど、結論が出ない状態を長く続けられる、長く考えていられるのは自分の強みなのかもしれない。というのは、結論を急ぐと大体誰がやっても似たものに収束しがちだと仕事で何度も目にしてきたから。
いわゆる採用面接では、結論が速い人の方が評価が高くなりやすいというバイアスがあるように思う。

結論を急がずじっくり考え続ける、というのはオイラの性格的な執着心がそうさせるのかもしれない。その代わり「乗りかかった舟」みたいな感覚で、途中で切り上げるタイミングを見失いがちでもあるんだけど。
結論が出ない不安よりも、視界が曇っている状態の方が気持ち悪い。視界が曇ったままで闇雲に突っ走るというのが性に合わない。

仕事で他の人と接することで、相対的に、自分の観察や洞察に自信が持てるようになった。
観察から課題を設定し、小さく実験しながら課題を浮き彫りにしていくのはスキルと言えるのではないか。よく見てよく狙うのがオイラのやり方。
自分は「実際に体験してみると色々と感じ取ることができるんだ」という自信めいたもの。それによって失う金銭的な額よりも、体感として得られるものの方が多く感じる。

自分の専門性

職業として、自分は何者なのか。
会社員になってから、ずっと1つの分野の仕事を続けてきたわけではないので自分の専門性というのがあやふや。

自分の実装力・技術的な専門性で言うと、結果的に分野横断型みたいになった。学生時代はCGのアルゴリズムだったし、会社員になってからはWebアプリケーション開発、インタラクティブメディア、画像認識、機械学習、そこから派生して少しだけ言語処理とか。
業務の変化にその都度勉強しながら対応していったけど、それができたのは手段に固執せず、解決すべき課題に向き合えたからかも。

その過程で身についたのは、複数の技術要素のバランスで組み上げるインテグレーションスキルみたいなものだろうか。1つの要素だけが突出しても台無しになってしまう、ということは体感として理解している。

身内の不幸

プライベートでは、母方の祖母が亡くなった。祖父は10年以上前に亡くなっている。
会社員になってから身内が亡くなるのは初めてで、「何でこんな時に」という気持ちが先立ってしまった。

オイラの職場は休めないブラック企業というわけではなく、ちゃんと規則で忌引休暇が取れる。だが、それと自分の仕事の調整がつくかどうかは別の話。単純に、オイラ自身が自分の抱えていた仕事を人に渡す・任せることができるかが問題。

他人に自分の仕事を引き受けてもらうことに躊躇してしまうのは、責任感じゃないんだよな。もっとずっと利己的なもの。プライドとは違うけど、オイラは少なからず仕事に自己表現的な要素を見出しているのかもしれない。
オイラでなくてもその仕事はこなせるけど、他の人はオイラがやろうとしたのとは違うやり方で違うアウトプットを仕上げるのだろうな、と。何故そんなことに執着するのか、自分でもよくわからない。

葬儀のために礼服を着て思ったけど、礼儀作法って年相応に身に付くものではなく、それまでの人生・人づきあいが礼儀に表われるということなんだな。そして、礼儀ってのはお金もかかる。全て合理化すれば良いというものでもないけど。

社会性

もう何年もFacebookもLINEも全然活用せずにいたけど、そろそろ社会人として不都合が出てきた。どちらもアカウントはちゃんと持っているけど、そもそも人と密に繋がろうという感覚が無かった。
主流のコミュニケーションツールが使えることは社会に加わる上での常識の内なんだな。そういう点では、オイラはまだ社会人未満。

英会話

出社時刻の指定や葬儀などでちょっとリズムが崩れて体調的にしんどくて、英会話を休んでしまった。つまりサボり。他の用事と時間がかぶってしまったとか、風邪をひいてしまったって理由以外で、ちょっと行く元気がないからレッスンを休んだのは初めてで、結構ショック。

何人かの先生と接してリスニング、スピーキングが伸びない根本は語彙の乏しさであると実感してきていて、語彙の増強=ボキャビルを生活習慣に取り入れたいと思い始めている。
http://mutuno.o.oo7.jp/05_training/05_training06.html

趣味はブログ

潔く認めよう、オイラの趣味はブログであると。
模型やCGのように手間のかかる趣味は仕事に圧迫されてすぐに途切れてしまうけど、ブログは負荷が少なくて継続しやすい。言語化で頭と気持ちの整理になる。
社会人になってからブログを再開した2014年に比べると更新頻度はだいぶ下がってしまったけど、ブログの更新を習慣にしたら、今はちょっと依存症みたいにもなっている。極稀にコメントで情報をもらえたりするのも嬉しい。

1月に立てたアウトプット目標的なものがちっとも実現できていないのが引っかかっている。



階段の1ステップが高過ぎたかもしれない。勾配をもっと緩やかにしないと今のオイラには登れないようだ。それは今のオイラの実力的にも、置かれている環境的にも。

自信より勇気

ちょっと前まで「もっと自信が欲しい」と思っていたけど、もっと正確に言うと、一歩踏み出す勇気が欲しいということかもしれない。
オイラはあれこれ考えちゃって行動に移す前に躊躇しがち。1回きりで、反復で精度を上げていくアプローチが取れないことにはかなりビビってしまう。想像力がネガティブ方向に進むのでなおさら。
勇気って何だろうな。


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