『シン・ゴジラ』の感想 (ネタバレあり)

映画シン・ゴジラ」は木曜夜中の最速上映(IMAX)を観て、ネタバレに怯えることなく楽しんだ。

映画「シン・ゴジラ」を深夜の最速上映で観てきた。 東宝がせっかくシン・ゴジラの情報を秘密にしてくれてるのに、不用意にネットでネタバレを見ちゃったら嫌だからね。

いやぁ、初見のインパクトを大事にして良かったよ。情報量が多いこともあり、その後MX4Dと通常のシアターでも観たので、合計3回観てしまった。



Twitterはてなブックマークを見ると、すでにネタバレ感想・考察が容赦なく流れているので、オイラもそろそろネタバレを含む感想を書いちゃおうかと思う。

まだシン・ゴジラを未見の方はこれ以降読まないで下さいね。


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続編の呪縛

感想の前置きとして、ちょっと別の映画の話。

シン・ゴジラが公開されるより少し前に、シン・ゴジラの予告編目当てで映画「インデペンデンス・デイ」の続編「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」を観に行った。

インデペンデンス・デイは20年前の作品だが、今作「リサージェンス」はリブート作ではなく、インデペンデンス・デイと同じ世界観の延長にある続編で、監督も前作と同じローランド・エメリッヒ。リサージェンスの作品世界は、インデペンデンス・デイから20年の時が過ぎた2016年が描かれている。



リサージェンスで描かれる2016年は、我々の住む現代とはだいぶ様子が違い、人類が宇宙人のテクノロジーを取り込み、20年を経て発展した架空の2016年だった。未来SFモノと言うほど現実と別の世界になっているわけでもなく、かと言って現実の延長としてとらえるには異質な世界観に少し戸惑った。現実世界と分岐してから20年も経過してしまったパラレルワールドの世界観は、観客との心理的距離が大きいように感じた。

そこでふと、過去のゴジラシリーズのことを考えた。

日本で制作されたゴジラシリーズは、全て第1作である1954年公開の「ゴジラ」の続編であり、リブートは1作も無かった。1995年公開の「ゴジラVSデストロイア」のように、1作目の登場人物とその子供世代にスポットを当てた作品でも、その時点ですでに40年も経過したパラレルワールドだった。

ゴジラの世界

ゴジラシリーズは、何度か世界観をリセットしてはいるものの、どれも第1作の続編であるが故に、シリーズの歴史を重ねるほどに現実世界との乖離を無視できなくなっていった。どれだけ時代が進んでも、現実との分岐点は1954年のままなのだから。

1954年にゴジラが現れてから、現代(新作公開時)に繋がるまでの歴史が架空の設定で埋められ、その世界観はもはや現実の延長ではない、「ゴジラの世界」と呼べるほど独特のものとなった。それは独自の路線を確立したとも言えるし、コアなファンにしか通じない「お約束」に近い溝を生んでしまったとも言える。
特に、1999年公開の「ゴジラ2000ミレニアム」以降の、いわゆるミレニアムシリーズでは、この「ゴジラの世界」のバリエーションが模索されていたように思う。

オイラのように第1作目の「ゴジラ」のはるか後に生まれた世代にとって、ゴジラシリーズと言えばこの独特の「ゴジラの世界」を楽しむものだった。これは「インデペンデンス・デイ:リサージェンス」と似たポジションの世界と言える。
作品によっては、ゴジラに限らず、他にも怪獣が存在する独特の世界で発展した組織・テクノロジーが活躍する「怪獣映画の世界」が構築されていた。ハリウッド映画「パシフィック・リム」で描かれたのはこちらの「怪獣映画の世界」に近いものだったと思う。このように、現実世界とのズレが大きい、いわば嘘で塗り固めた世界観を映画で描くには、設定の作り込みのみならず、映像化のハードルも高くなるため、制作費不足がモロに絵面に反映されてしまう。(昨今のマンガ原作の実写化が良い例)

やや思い出話になるが、オイラが初めて第1作目の「ゴジラ」を観たのは中学生の頃だった。VSシリーズも終了し、平成モスラシリーズやローランド・エメリッヒ版「GODZILLA」が公開された頃に「ゴジラ」のビデオソフト(VHS)を購入した。(DVDなんて無かった時代)

すでにVSシリーズに慣れていたオイラにとって、この第1作はかなり異質なものに感じたのを覚えている。自分の知っている「ゴジラの世界」がそこにはなく、「キャラクター」としてのゴジラも存在しなかった。1954年に現れたゴジラは、表情も無く、ほとんど吠えず、意思の読めないバケモノだった。

ハリウッドのゴジラ

過去、ゴジラ第1作目の続編ではなく、完全にリブート作として制作されたゴジラ映画は、ハリウッド版のゴジラ2作品(ローランド・エメリッヒ版、ギャレス・エドワード版)だけだった。

1998年公開のローランド・エメリッヒ版は、フランスの核実験の影響で突然変異したイグアナが、大都市で繁殖しようとするパニックムービー。

2014年公開のギャレス・エドワード版では、古代より地球の生態系の頂点に君臨していた巨大生物「ゴジラ」が、さながら「怪獣王」のように描かれ、ハリウッドの大規模予算で怪獣プロレスの世界を繰り広げた。

これらの2作品は初代ゴジラの続編ではないため、少なくとも現実世界の延長として、独特の「お約束」を強要されずに鑑賞できる。その点では、作品のテーマ性云々に関わらず、国産のゴジラシリーズよりも大衆向きなつくりと言える。

国産のリブート作「シン・ゴジラ」

前置きがだいぶ長くなったが、やっと本題。

現実を侵食する虚構

今回の「シン・ゴジラ」は、国産ゴジラ作品としては初めて、過去のゴジラ作品との繋がりを一切リセットしたリブート作である。作中の世界観は、ゴジラどころか巨大生物なんて1度も現れたことのない、我々の住む現代の日本と同じ。
作中の日本の法律や防衛装備は現実の日本と全く同じで、まさに「日本(現実) 対 ゴジラ(虚構)」が描かれるのだ。すでに多くの人が感想で語っているように、本作からは3.11以後の時代性も強く感じる。

突如東京湾で発生した水蒸気爆発と、それに伴うアクアライン崩落事故は、原因不明ながら死者もなく、政治家達の会議は規定の手順を踏みながら、どこか呑気。その後テレビ中継に映し出される「巨大不明生物」の尻尾。

呑気な雰囲気に加え、やや滑稽にも思える唐突な展開と絵面が割り込み、深刻に受け止める余裕もなく事態の楽観視を許してしまう。この初動の遅れを発端に、ジワジワと日本が追い詰められていく展開がゾクゾクする。虚構が現実を侵食し始めるのだ。

初代ゴジラへの挑戦

本作では、ゴジラ自体の設定のリセットが徹底されている。過去のシリーズを知っているファンであっても、本作に登場する「巨大不明生物」が自分達の知っているゴジラではないことを早々に気づかされる。映画のかなり早い段階で「巨大不明生物」の全身像が明らかになるが、初めてスクリーンに現れた「巨大不明生物」の姿に、思わず「えっ!?」と声が漏れそうになった。↓

ゴジラ ムービーモンスターシリーズ ゴジラ2016(第二形態)

シン・ゴジラ第二形態の雛型

ゴジラの姿をしていないどころか、前足もまともに付いてない。
パンフレット記載のインタビューにもあるように、この「第二形態」のデザインは、サメのラブカの顔のイメージを取り入れており、何を考えているのかわからない、人が感情移入できない眼をしている。そこに知性・意思があるのかさっぱりわからない未知の巨大生物が、ややレトロで大味な(ギニョールのような)動きで東京に上陸してくる。
ちなみに、タカラトミーの「海底サメ王国」というラインナップにサメしかいないカプセルトイがあって、オイラはそこで初めてラブカの存在を知った。

この時点で、「本気で初代ゴジラに挑戦している」と感じた。過去のゴジラの設定をなぞるのではなく、1954年当時の観客が「ゴジラ」を観て抱いたであろう感情を、2016年の観客にも味わわせようとしているのだ。「何なんだこのバケモノは」と。

この、やや滑稽な見た目のバケモノは、人間を捕食するわけでもなく、時速13kmでゆっくりと、我々の日常風景「東京」を進んでいく。そして、第1作目の伊福部昭の不気味な劇伴曲と共に「進化」を披露する。

ゴジラ ムービーモンスターシリーズ ゴジラ2016(第三形態)

シン・ゴジラ第三形態の雛型

ゴジラ第1作目の劇中で、山根博士がゴジラのことを「海洋爬虫類から陸上獣類へ進化する途中の生物」と推測していたが、本作のゴジラは形態変化によって一世代で急速に「進化」してしまう完全生物。初代ゴジラで描かれた「底知れない強さからくる恐怖」を2016年に味わうことができるとは。(これって、ゴキブリにも似た怖さかもな)

テンポの速い会議シーン

たぶん、この映画の人間描写の大部分は会議シーンのはずなんだけど、ダラダラとダレたりせず、テンポ感を維持している。その1番の理由は、時間当たりの情報量の多さによるところが大きい。劇中での会話が皆とても早口であること、とにかくテロップ表示が多いこと、そして、かなり短くカット割りされているため、飽きる隙が無く、畳みかけるように大量の情報が流れ込む。おそらく、観客がある程度取りこぼしてしまうことも想定済みの構成なのだろう。

結論ありきの形式的な会議シーンでは、そのテンポ感とテロップ芸によって、「クスッ」と笑ってしまうような面白さも生んでいる。会議シーンがちゃんとエンターテイメントにできるとは。

この映画全体の早口なテンポは、逆に言うと、役者が息遣い等の「間」の芝居を挟む隙も無く、登場人物の感情に触れる機会はそれほど多くない。だからこそ、テンポの変わり目≒感情の起伏として際立っている。この辺りは会話に感情を込め過ぎない「仕事人間」の姿の演出でもあるのだろうか。感情を抑制した日本人達の中に、感情を表に出す米国特使が入って来ることで会話が重くなり過ぎないバランスを保っている。

天才がいない国

本作では、徹底的な取材によって、巨大不明生物が現れた場合のシミュレーションが行われている。(ポリティカルフィクションと言うらしい)
取材によるリアリティだけでなく、フィクションの部分でも日本人の国民性が表現されているように思う。チームワークの描き方である。ハリウッド映画であれば、大統領のリーダーシップ、天才科学者の作戦、天才パイロットの腕で事態が解決していく。主人公がカリスマなんですよね。(ってのはインデペンデンス・デイの話ですが)

だが、本作では極めて民主的に、メンバーそれぞれの尽力を1つ1つ積み重ねて事態の解決へと向かっていく。個性的な登場人物達だが、そこに天才はいない。物語の前半では、「巨大不明生物」の出現をきっかけに、実は機能不全に陥っていた「形だけの民主主義」の化けの皮が剥がれ、物語の後半では、危機的状況下で本来の力を発揮していく様が描かれる。(ちょっと言い過ぎか?)

各組織のはぐれ者を集めて結成された巨災対(巨大不明生物特設災害対策本部)は、精鋭の集まりではなく、どちらかと言うと空気を読まない人間の集まり。天才のいない組織のチームワークを堪能できる。

最強のゴジラへの対応

本作のゴジラの破壊力はすさまじく、もうホントに絶望的な絵面が広がる。ゴジラの絶望的なほど強さが強烈に描かれているので、ここはぜひ映像を観ていただきたい。

追い詰められた日本は「ゴジラに対して熱核兵器を使用する」という国連の決定を受け入れ、カウントダウンに入ってしまう。核兵器以外の最後の希望として、巨災対の面々が「ヤシオリ作戦」の準備を急ぐ。この辺りはDAICON FILM版「帰ってきたウルトラマン マットアロー1号発進命令」とも似た展開。

この「ヤシオリ作戦」の根幹となるのは、最新鋭の兵器ではない。我々が見慣れた既存の車両を駆使して、薬品の経口投与でゴジラを凍結させようというもの。その絵面がまさに福島原発に放水して冷却しているような図で、これはもう、確信犯としか思えない。

散りばめられた謎

本作はその情報量の多さと、全ての解を明示的に語らない、エヴァにも似た節があるので、「あれは何だったの?」とか、「ひょっとしてあれって…」みたいな考察というか妄想が膨らませやすい。ラストシーンでかなり気になる画のままエンディングに入っちゃうし。エヴァと同様、ファンが語り合いたくて仕方がないつくりなんですよ。
その辺の答え合わせは公式ムックに期待しましょう。↓

ジ・アート・オブ・シン・ゴジラ

オイラはまだ未見の岡本喜八監督作品、日本のいちばん長い日激動の昭和史 沖縄決戦を観ようと思う。

2016年の大ヒット作『シン・ゴジラ』。巨大生物=ゴジラの脅威に直面した政府上層部を、政治ドキュメンタリーのようなタッチで描いた異色作だ。

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