アニゴジ三部作の最終章「GODZILLA 星を喰う者」を観てきた。
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GODZILLA 星を喰う者
1年前に第一章「怪獣惑星」が公開されて、その半年後に第二章「決戦機動増殖都市」、そして最終章「星を喰う者」と、これで三作全部に付き合ったわけですね。
本作「星を喰う者」は11月3日に東京国際映画祭のクロージング作品として上映されたようで、それを観た方々がTwitterで酷評していたのでちょっと不安だったけど、なかなか面白かったですよ。
ただし、その面白さはいわゆる「怪獣映画」とは違うベクトルなのです。怪獣プロレスを期待すると盛大に肩透かしを食らう。
それは前作「決戦機動増殖都市」でも感じた方向性。アクションでもパニックでもなく、もちろん恋愛でもなく「異民族同士の思想の衝突」を描いたSFとしての魅力。
100点満点とは思わないし、映像が地味だったり結末がスッキリしないなど残念な点はもちろんあるんだけど、知的好奇心をそそられる世界観だった。
映画の前日譚を描いた小説が怪獣ファンへのサービスに溢れていたから、期待のベクトルがどうしても怪獣プロレスへ傾いてしまうんだよな。
三作を通じての感想になるけど、よくこんな思想の違いを考えられるよなぁ、と感心してしまった。このシリーズに登場する怪獣は、主人公ハルオ(地球人)を取り巻く異民族それぞれの思想の象徴として描かれている。
ビルサルドの思想を具現化したナノメタルテクノロジーとメカゴジラ。フツアの文化を象徴するモスラ(の卵)。エクシフの宗教の根幹となるギドラ。そして、地球人類の文明の発展の先に存在したゴジラ。
逆に言うと、登場する種族は「怪獣を擬人化した」ということか。
特に、二作、三作と進むにつれ、各々の種族が「怪獣」という存在・言葉に抱く解釈がまるで違うことが明らかになっていく。「ゴジラに勝利する」とは何を目指すことなのか。それぞれの種族の背景にある歴史、テクノロジー、身体的な能力の違いが根本にあり、捉えている概念がそもそも違うのだ。
思想の衝突を描くプロットだから、どうしてもセリフ合戦になってしまう点、登場する怪獣のスケールが大きくなり過ぎて登場人物が画的に介入する隙も無い点が映画として微妙なところですが。。。
本シリーズはもともと連続アニメシリーズとして企画されていたらしく、映画館の大きなスクリーンで映えるようなビジュアル推しの構成ではなかったのかもしれない。
テレビアニメシリーズだと、予算や制作期間の都合で凝った映像を作れないから、拙な絵(ほとんど動かなかったり、描き込みが少ない画)でも文脈で盛り上がるようなストーリー構成になってたりするけど、まさにそんな感じ。
あんまり映像で魅せようとしていない(笑) 世界観のスケールに対して映像演出が追い付いていないとも言える。13話くらいの構成なら個々の要素をエピソードとして拾いつつ、結末へ向けて引っ張れる世界観だった。
「動」な画よりも「静」の止め画に対して長い語りで物語を紡いでいく作りになっている。巨大感の演出で怪獣の動きがゆっくりだから余計にそう感じる。逆に言うと紙芝居映えはしそう。長いセリフの合間に時々緻密な挿絵が入るぐらいの。
ギドラの神々しさは止め画としてとても映える。
常軌を逸した攻撃はジョジョのスタンド感もあった。映画としてはセリフだけでなくもう少し映像的な描写、計器類の表示とかで表現する方法はあったのではないかという気はするけど。
こうやって王道から外れたテイストも好意的に受け取れるのは、単純に今はゴジラ作品の選択肢が1つではないからかもな。
さて、前日譚ではなく、映画のノベライズも出た↓
三作とも主題歌が良かったよね。
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