割とギリギリのタイミングで来年用の手帳のリフィルを買った。手帳自体はここ数年ずっとトラベラーズノートを愛用している。
スケジュール管理なんて、今時はGoogleカレンダーを使えば良い話ではあるんですけどね。相手に与える印象とか情報セキュリティとかに一応配慮して、仕事ではおおっぴらにスマホやGoogleカレンダーは使わないでいる。私物のスマホや外部のサービスに情報を入力されるのを嫌がる人もそれなりにいるのです。
2019年 追記:さすがに今はスケジュール管理に紙の手帳を使ったりしていない。メモを取る際は未だに紙に書くこともあるけど。(目的によって使い分けている)
なんとなく、オイラの仕事観というか、スケジュール管理についての考えを書いてみる。
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手帳によるスケジュール管理
おおっぴらにスマホを使うのを何となく避け始めたのは、就職活動の頃。まだスマホよりガラケーユーザーの方が圧倒的に多かった頃で、他の学生達が手帳を開いている中でスマホをいじっているのは何となく印象が悪く、失礼かもしれないと思ったので。
その頃から「スケジュール管理は社会人の常識」みたいな風潮は感じたし、確かにそこで失敗するとあらゆることが崩壊してしまうのは実感した。
手帳は1日分のスケジュールも時間・分単位で細かく書き込めるタイプが良い、とその時は思った。
会社員として働くようになってから、トラベラーズノートと、1日の予定も細かく記入できるタイプのリフィルを購入した。これで1日の時間を有効活用して多くの仕事をこなせると思った。ところが、それは早々に破綻した。会社員になりたてのオイラは、仕事をこなす上で重要なことを見落としていたのだ。
スケジュール管理はパズルではない
スケジュール帳の上では、隙間時間もパズルのように上手く使って、無駄の無い1日のスケジュールが組み上がっていた。だが、問題は「全てが予定通りに進むわけではない」という、ある意味当たり前のことだった。
予定がズレていく原因は様々で、単純に天候不順や交通渋滞による遅延、あるいは前の会議が長引いているため関係者が時間通りに集まれない、会議が長引いて時間通りに終わらない、などなど。
不測の事態というほど大げさな理由でなくても、予定というのは些細なことでズレていく。精密なパズルのように組み上げたスケジュールは、些細なズレで玉突き事故のように崩壊した。「関係者に時間厳守を徹底すれば済む話」と言えばそれまでだが、新人のオイラはそういう環境で働いていたのだ。
これは手帳であろうとGoogleカレンダーであろうと本質的には変わらない。より細かい解像度でスケジュールを記入できる分、Googleカレンダーの方が質が悪いかもしれない。スケジュール管理は単なるパズルではないのだ。
この失敗以来、手帳のリフィルには細かいスケジュールを書き込めないよう、あえて時間解像度の粗いタイプのものを使うようになった。
この失敗で得られた教訓は「スケジュールには余裕を持たせるべき」ということが1つ。
だが、世の中にはびっしりと詰まったスケジュールを実際にこなせる人がいるのも事実だ。テレビで密着取材されるような有名経営者なんかは結構な過密スケジュールを日々こなしている。そういう人達と当時のオイラの違いは何だったのか。
重要なのは裁量権
その違いは会社で年次が上がるにつれて徐々に分かってきた。それは「裁量権」だ。スケジュールを立てる上では「時間」だけでなく「裁量権」という要素がとても大きく影響する。
裁量権が大きければ、多少予定がズレてもその後のスケジュールをズレに合わせて動かせる。社長のように裁量権の範囲がトップレベルに大きい立場の人なら、予定のズレも自分を中心に修正しやすい。
問題は裁量権の範囲が小さい立場の人間である。会社に入ったばかりの新人のような、1番下っ端。残念ながら、下っ端になればなるほど裁量権は無くなり、その立場は「自分の時間を他人に使われる立場」と言い換えることもできる。
余談だが、接客業も基本的に「自分の時間を客に使われる立場」となることが多い。
時間を使われる立場の人間は、上の立場の人間のスケジュールに合わせた「待ち」の時間も発生しやすくなるが、この待ち時間は決して自由に使える時間ではない。予定のズレを受け止めるためのクッションだ。
スケジュールを立てる上で意識すべきは「自分の裁量で動かせる時間か、他人の裁量で決まる時間か」ということ。会社組織内であれば、スケジュールの自由度は立場の上下が大きく影響する。幸い(?)年功序列な職場環境では年を重ねれば裁量権が自動的に大きくなるので、年次が上がるとスケジュールを立てるのが楽になっていく。何もしなくても時間を使うのが楽になっていくので、自分の管理能力が上がったような錯覚にも陥る。
仕事におけるマルチタスクとは?
さて、こう考えていくと薄々見えてくるのだが、その前に仕事における「マルチタスク」とはどういうものかもはっきりさせておこう。
同時に1つのことしかこなせない「シングルタスク」に対して、複数のことを並行してこなす「マルチタスク」という表現は、最近のCPUではお馴染みの概念だ。だが、人間もCPUと同じように「マルチタスク」つまり「同時並行に複数のタスクをこなす」なんてことができるのだろうか。
CPUと同じ定義に従うと、人間は演算コアを複数持っているわけではないので「マルチタスク」なんてできるはずがない。働き方で使われる「マルチタスク」という表現は「複数の仕事を掛け持ちしている」という意味でしかない。
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掛け持ちのピラミッド構造
さらに、ここで言う「マルチタスク」も役割によって実態が分かれてしまう。業務を遂行する際、大雑把に言うと2つの役割が存在する。
指示を出す人間=管理者と、指示に従って何らかの作業をする人間=作業者だ。管理者の役割を担った人は、その下に複数の作業者を抱えることができる。
指示の手間 < 実作業の手間
という関係が成り立つ時、管理者は作業者1人分と同程度の手間でも多くの指示(=仕事)をこなすことができる。管理者は役割上、マルチタスクになりやすい、というかマルチタスクを求められる。
逆に、作業者の役割を担う人は、性質上 マルチタスク=掛け持ち が難しい。担っている仕事がそもそも手間のかかる実作業であることと、場合によっては管理者からの追加指示も発生する。
管理者と作業者の人数比は、管理者を頂点としたピラミッド状の指示系統になっているのが理想。だが、たまにこれが逆三角形状態となって、複数の管理者によって1人の作業者を潰してしまうこともある。指示系統の設計として最悪なケースだが、実際たまに起こる。
マルチタスクに働ける人とは?
ここまで、「立場の上下」と「管理者と作業者」という2つの軸が登場した。年功序列、ホワイトカラーの組織であれば、この2つの軸は大体一致してしまうかもしれない。
ここまで述べてきたことを総合すると、最もマルチタスクに働ける人の条件は「立場が上で、管理者の役割の人間」となる。要するに、ほとんど経営者ってことになりますね。逆に最もマルチタスクに不向きなのは「立場が下で、作業者の役割の人間」ということになる。こっちも要するに新人のような人ってことです。あるいは、発注元と下請け業者のような関係。
仕事におけるマルチタスクとは、個人の能力ではなく、立場と役割でこなすものだ。
時間が上手く使えないのは何故?
たまにシングルタスクの人を馬鹿にするような発言をするビジネスマンもいるけど、能力というよりは担っている役割の違いに目を向けた方が良い。
もちろん、管理者でありながらマルチタスクに働けないのなら問題だが、その場合は業務を遂行する上での十分な裁量権を持っていないか、指示の手間と実作業の手間の関係が逆転している可能性がある。中間管理職でありながら適度な抽象度の指示が出せないような、マイクロマネジメントしかできないタイプの人はこれに陥るかもしれない。(指示の出し方は訓練してください)
仕事が上手く進められない新人に対してのアドバイスとして「優先順位をつけろ」なんて言う人もいるけど、これもあまり的確ではない。優先順位は裁量権を持つ立場の人間がつけるべきだし、もしも1人の新人に対して指示者が複数いるとしたら、その指示系統に問題がある。複数の管理者間で優先順位を調整すべきところだ。新人が取捨選択できるようなことではない。
オイラが1番言いたいのは、マルチタスクに仕事をこなせないからといって落ち込まなくても良いってこと。個人の能力云々よりも、立場の上下、担う役割の方がはるかに大きな影響を及ぼす。
マルチタスクが向いているのは他人に仕事を頼む立場の人間で、仕事を頼まれる側ではない。
逆に言うと、1人の人間に複数の作業を細切れでバラバラと押し付けると、どんどんパフォーマンスが下がっていく。それは人間の性質。
自分の能力不足を嘆く前に、自分の置かれている立場と役割に目を向けた方が建設的だ。
もちろん、置かれている状況がクリアになったら、個人のスキルもそこそこ磨く必要はある。
仕事の能率は計算機の理屈と比べて考えると説明しやすいし、色々納得できるな。
仕事を時間で比べるな
裁量権の話でもう1つ。ブラック企業を語る上で労働時間がよく話題に上る。分かりやすい指標なので、ブラック企業社員の不幸自慢(?)でも労働時間を競う(?)ような発言が見受けられる。そこに、たまに経営者の起業時の昔話で「自分はもっと働いていた」みたいな発言も混じってくるが、オイラの個人的感覚として、仕事での疲労感やストレスは労働時間だけでなく裁量権の影響も大きいと思っている。
裁量権の無い状態で長時間労働を強要されるストレスは、経営者自身が自分の裁量で長時間労働するのとはわけが違う。
https://blog.tinect.jp/?p=31836
裁量権のある人間が他人の仕事に頻繁に割り込む忙しさと、裁量権の無い人間が頻繁に仕事に割り込まれる忙しさでは、労働の質がまるで違う。別のタスクが細切れに割り込んでくると、コンテキストスイッチの負荷が大きいのだ。
労働の中身は職業ごとに異なるので、時間と給料ぐらいしか共通で使える指標が無いのも理解できるけど、労働の尺度についてはモヤモヤすることが多い。
その仕事で拘束されるのは何?
さて、裁量権や役割について考えていると、仕事選びもこういう軸で考えれば良かったのかなぁ、と思えてくる。自分は何に裁量権を持ちたいか、何を拘束されるとストレスで、逆に何なら拘束されても平気でいられるのか。長く健康的に働き続けるなら、この辺りは結構重要なんじゃないだろうか。
みんな立派なことを言う
最初のスケジュール管理の話に戻るけど、社会人と呼ばれる人達の中に、当初の予定と実際の結果を照らし合わせてスケジュールを振り返っている人はどれだけいるのだろうか。
人が成長するためには結果のフィードバックが大きな糧になると思ってるんだけど、スケジュール管理術って訓練で上達するのかな。結局、マルチタスクに仕事をこなせるかどうかは、スケジュール管理術とあまり関係無いわけだし。
就職活動の頃に吹き込まれた情報は随分と立派な「社会人の心得」みたいなものだったけど、そんな空想を真に受けたらすぐに潰れてしまうよ。空想相手に必死にならなくて良い。
とはいえ、些細な理由で予定がズレがちだったり、やたら1人が複数の仕事を掛け持ちする組織って、生産性がちっとも上がらない気はします。
2020年 追記:「マルチタスク」という言葉を真に受けて、他人からの割り込み仕事に都度応じる働き方を続けていくと「反射的にできる仕事しかこなせない人間」になる恐怖も感じる。思考を集中させる仕事に取り組めなくなる。
2022年 追記:この記事を再編集してnoteに投稿してみた↓
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