8月1日の公開直後から色んな意味で話題になっている、マンガ「進撃の巨人」を実写映画化した「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の前編を観てきた。通常の映画館での上映以外に、IMAX、MX4D(2D作品なのに)でも体感できるけど、オイラは通常の映画館で1,800円払って観てきた。
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これからこの映画を観る人達へ
まだ「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」を観ていない方々へ、オイラからのメッセージはこれに尽きる。
事前に「サンダ対ガイラ」を観て期待値のベクトルを軌道修正してから実写版「進撃の巨人」を観賞するべき
— NegativeMind (@NegativeMind) 2015, 8月 3
「サンダ対ガイラ」というのは、雑に紹介すると「巨大なフランケンシュタインが人を襲い、街中で2体のフランケンシュタインが戦う作品」です。海底火山とか出てきます↓
さて、以降に書くことは映画のネタバレを含む内容となるので、映画未見の方はそっとページを閉じるなどしてください。
それと、以下はあくまでオイラ個人の感想、というか戯言に近いので、あんまり真に受けないでください。
これは特撮映画である
本作の監督である樋口真嗣氏は特撮・アニメでキャリアを積んできた人。特撮監督を務めた平成ガメラ3部作での映像表現は、後の怪獣映画の映像表現に大きな影響を与えた。そして、アニメでは作画監督としてやはりその画作りが高い評価を得ている。アニメを作れば特撮っぽく、特撮を作ればアニメっぽくなるとも言われた。
一スタッフとしてではなく、監督として映画を撮るようになったのは2005年の「ローレライ」から。リメイク版「日本沈没」や、同じくリメイク作「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」など、有名(邦画として)大作映画を新しいビジュアルで現代によみがえらせた。(これらリメイク作では、オリジナルから大きくストーリーを改変するということもやっている)
特撮博物館で上映された短編「巨神兵東京に現わる」も彼の監督作品。(ほとんど特撮オンリーですけど)
と、まあ基本的にビジュアル中心の監督なのである。たとえ監督本人が抑えていたとしても、少なからずそっち方面のケレン味が作品に混入してしまう。その結果、厄介なことに、昭和から続く特撮映画の延長として捉えなければ、この映画でカタルシスを得ることが難しくなっている。つまり、この映画は基本的に「特撮映画」のコンテキストを共有できる人間しか共感できないのだ。
ミニチュアの街が壊れる着ぐるみプロレスで感情を揺さぶられる類の人が、この映画を最大限に楽しめる人達だ。
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ケレン味優先の改変
この映画を観に行く人の中には、原作の進撃の巨人の読者も多いと思う。あのマンガの世界観・キャラクター達がどのように実写化されるのか、興味と期待を抱いて劇場に足を運ぶだろう。ところが、この映画においての原作は特撮映像のモチーフでしかないのである。
大方撮りたい特撮表現が先に存在し、それを時間内に詰め込めるように逆算してストーリー・キャラクターを作っているような印象を受ける。登場人物の行動原理が、心情の結果ではなく、撮りたいビジュアルへ繋げるつじつま合わせのための記号と化している。
例えば、映画の終盤の「巨人化したエレン」のシーンを最大限盛り上げるためには、「普段のエレンがケンカする時の戦い方」を伏線として印象的に描かなければならない。ケンカで「エレンの戦い方」を描くことを優先し、ケンカする理由が貧弱になってもお構いなし。とにかく戦い方をスローで見せ、印象付ける。知性を持った巨人の戦い方を見て、「あれはエレンだ」と気づくシーンから逆算して構成されている。
映画のエレンの行動原理がやたら幼稚に見える理由は、この手のビジュアル・ケレン味優先の改変が随所に行われているためだろう。(まあ、昭和の特撮映画は大体そんなのばっかりだった気もする)
唐突に見えるちょいエロなシーンも、この手の「お約束」から説明がつく。ホラーものではおなじみの、お色気シーンが突如殺戮シーンへ変貌するあの流れである。次に来る殺戮シーンを強調するために、真逆となるエロなシチュエーションを挟んで無理矢理ギャップを作っているのである。「油断→大惨事」という公式(?)通りの展開。しかし、その油断の犠牲者が後編にも必要な重要人物では困るので、オリジナルキャラクターがあてがわれているのだ。
このように、記号的にシーンを組み立てた結果、登場人物の行動原理にちっとも共感できないストーリー展開となってしまっている。映画オリジナルの「シキシマ」や「サンナギ」というキャラクターも、ケレン味の記号のような印象を受ける。直情型の主人公に、クールで腕の立つ恋敵(?)がいて、力持ちのデブがいる。昭和のお約束だ。
巨人の違和感の正体は何か
さて、ここからはストーリーやキャラクター描写は脇に置いておいて、色々と言われているこの映画での「巨人の表現」について考えてみたい。
まず、この映画を観た人達から「巨人が巨大に見えない」という感想が多数上がっている点について↓
実写版『進撃の巨人』巨人が巨人に見えない問題
これはオイラも感じた。超大型巨人を除いたその他大勢の巨人達は、いかにアオリでも、手前の人物と合成されていても、巨人の顔を見てしまうと巨大に見えないのである。その辺のおっさんをアップで撮っているようにしか感じられない。
この謎を解くために、まず原作での巨人の描かれ方を思い出してみる。
原作での巨人は、ある感情(笑いなど)に固まったままの表情で次々と人を食らう。感情と行動が不一致な、理解不能な存在として不気味に描かれている。ここでオイラが感じるのは「不気味の谷」と似た現象だ。エレンやミカサといった登場人物と違い、巨人の顔は目、鼻、口などそれぞれの器官のディティールがリアルに描かれている。人を食らう時の歯の描き方も、登場人物より写実的にディティールを描いている。写実寄りの情報量を持ってくることで、「巨人」という存在の不気味さを増している。
原作漫画においては、「人間」と「巨人」の顔を描く際のリアリティレベルが違うのである。この描き分けがあるおかげで、人間をどんなにアップで描写しても巨人に見えることはなく、巨人を小さく描いても人間に見えることがない。そして、原作者の諫山創氏の画力が、巨人の不気味の谷現象を強調する結果となったのではないかと思う。写実寄りのディティールが上手くまとまらなかった結果、巨人のあの独特の不気味さが生まれたのではないか。
話を映画に戻す。映画での「その他大勢の巨人」は、一般からのエキストラ出演も募っていたようである。その他大勢の巨人のテイストは、あまり凝った特殊メイクはせず、ほぼ出演者の素顔に近い状態で表現しているようだ。
おそらくこれが、「巨人が巨大に見えない」という点につながっている。原作で意図的に行われていた「人間と巨人の顔のリアリティレベルの違い」があまり表現されていないのだ。
「出演者の素顔に近い状態」で作られた巨人の顔は、たとえアップになっても「人間」と大差のない情報量であるが故に、見ていて「巨人」という別種の存在に感じにくかった。ここは思い切って着ぐるみでもよかったのではないかと思う。その他大勢の巨人の中に、際立って人外の顔をした巨人もいたが、あれをもっと強調してもよかったのではないだろうか。「一般エキストラを募集する」というイベントを消化しなければならない大人の事情があったのかもしれないけど。
その点、「巨人化したエレン」は着ぐるみの延長として見れるので、「巨人」として捉えやすかった。着ぐるみのドアップに耐性の無い人にはつらいだろうけど。
風景の違和感
これはもうしょうがないんだけど、邦画の予算規模だと、ロケ+αで描くしかないのよね。風景が原作と大きく様変わりしているのに衣装が原作のテイストを色濃く残しているから、ややチグハグな印象を受けた。風景や小道具から作品の世界観を捉えるのはちょっと混乱してしまう。
この辺は、雨宮慶太作品である程度慣れているから許容できたけど、皆さんはどうでしたかね?
追記:後篇の話↓
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